看板の歴史

海外の看板

世界最古の広告は、紀元前1000年頃に、古代エジプトのテーベの街角に張り出されたものとされています。

紀元前のカルタゴでは、ガレー船の持ち主が船の到着や積荷の内容を周知するためにニュースを書いた服を着させて街中を歩かせたと言われ、これが、広告手法の一つである、サンドイッチマンのはじまりと言われています。

ヒエログリフ解読の鍵になったことで知られる「ロゼッタ・ストーン」は、紀元前196年に開かれたメンフィスの宗教会議の布告を書き写した石柱であり、プトレマイオス5世王の偉業を称える内容の屋外広告とも言えます。

ポンペイの遺跡では、不動産広告や興行広告を内容とする、吊り下げ看板や壁面広告が発見されています。

19世紀前半にイギリスには、広告で覆われた馬車や、広告専用馬車が走っていたと言われています。

ヨーロッパで見ることのできる円筒形のポスターボードは、19世紀、ドイツで印刷業を営んでいたアーネスト・リトファス氏が発案したもので、「リトファスの円柱(リトファス・ゾイレ)」と呼ばれています。

理髪店の看板は赤・白・青の縞模様が一般的ですが、これはかつて理容師が外科医を兼ねていたことに由来し、赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表しています。1540年頃パリの外科医メヤーナキールが創案し、彼の医院の看板に用いたのが始まりと言われています。

日本の看板

日本で看板の起源が登場する最古の文献としては、平安時代の天長10年に淳和天皇の勅により編纂された、養老律令の注釈書である「令義解」があります。この中には市に関して、「市では商品の標(しるし)を立て題を示すこと」という記述があり、これが看板の起源と言われています。

古くからある「暖簾(のれん)」の名称が日本に定着したのは室町時代で、中国の元の時代に順宗の命で編纂された「勅修百丈清規」(1340年代)が日本に紹介されたのがきっかけで、百丈清規として僧・古鏡明千により国内で広められたと言われています。

室町時代の看板の様子を知る手がかりとして、京都内外の市民生活を描いた、「洛中洛外図屏風」があります。狩野永徳が描いたものは、上杉家旧蔵本として知られ、織田信長が上杉謙信に贈ったものとして有名です。

店の様子が良く分かる資料としては、室町時代の職人を描いた、川越喜多院所蔵で狩野吉信筆と言われる「職人尽図屏風」があり、職人の店先に掛けられた暖簾の様子が分かります。

日除けのために用いられていた暖簾に屋号の表示が加わったのは、3代将軍 足利義満の室町時代と言われています。

一休和尚の句に「ごくらくを いづくのほどとおもひしに 杉葉立たる又六が門」があります。「又六」は酒屋の名前で「杉葉」とは酒屋で新酒出廻りの印を表す看板で現在では酒林とも呼ばれています。

江戸時代には、将棋の駒がモチーフになった看板が多くの質屋で使われていました。これは、将棋の「ナリ金」が「入れば金になる」に通じるためです。

江戸時代に書かれた看板に関する考証資料には、文化11~12年(1814~15年)に刊行された山東京伝による「骨董集」があり、近世の風俗112項目の起源・沿革を3巻4冊で記述しています。

東京・浅草にある「駒形どぜう」の暖簾に書かれた「どぜう」の文字は江戸時代に撞木屋仙吉によって書かれました。

江戸時代後期には、日本に外来語の看板が現れました。

日本で最初の外来語が使用されたのは「ウルユス」という薬の看板でした。

明治時代には、三越呉服店(現在の三越)の、丸に越のマークができました。

大正時代になると中山太陽堂が東京で初めてアドバルーンを上げました。

大正時代は国内でネオンサインの開発が行われ、マツダランプが国産初のネオンを開発しました。

大正7年には日本で最初にネオンサインが銀座で点灯されました。

1920年(大正9年)には初代通天閣に、ライオン歯磨のネオン広告が表示されました。

ネオンサインは第二次大戦中、1940年に施行された電力調整令によって禁止されました。

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